A Bookworm Diary

This is a diary of a woman who finds considerable pleasure in reading books.

今週の世間話

 職場の上司が「ま、忖度ってことになるんだがな。ガーッハッハッハ」とか「いずれにせよ、これも忖度して、ってことなんだけどなガーッハッッハッハ」と言うたびに、「ん!?」ってすごい反応してたウィークデー。スーザン・ソンタグの話じゃなかったことに気づいたサタデー。森友学園ネタでした。時事ネタに疎すぎる。

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What I've been recently.

     It's been a long time. I'm surprised to find more than a year has passed since I last posted my blog. So much has changed since then, and to my surprise, I'm content with what I am now. I had decided to quit my study for the time being on various grounds. I was short of money. I also wanted to distance myself from my supervisor. Though she still tries to get me back to my study, I receive her encouragement with mixed feelings. When I think back to the days spent with her, it was really horrible. I found that one needs something other than creativity and aspiration in order to be successful in this field. I was unsure of my future prospect in the world of so-called academism. As I was exhausted and had shown symptoms of depression, I decided to free myself from my stubborn obsession that "Once I had started it, I must make something out of it."

     Now I devote myself exclusively to what I used to do in my spare time: teaching job. The last fifteen months have been full of tremendous stress but certainly not without joy and laughter. I feel responsible for guiding them, which sometimes puts so much pressure on me. Nonetheless, I don't feel like quitting because it comes always with a sense of accomplishment and pleasure of seeing their smiles.

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第5話

 ここ数ヶ月で、人間としての経験値だけは高くなった気がする。苦笑

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Episode 4

     Some say a word about the appearance and the looks of other people, which is always unnecessary. When I was a child, my elder sister teased me saying that my eyes were small. One day, one of my classmates stared at me for a while and sneered at me saying that I had a dark complexion. I ceased to love my boyfriend when I heard him say something about my body contour. Even now, it is not rare to hear someone talk about other people's appearance as well as mine. As far as I'm concerned, it is their behavior, the very act of criticizing or speaking ill of what the other people were born with, which lacks grace.
     Every time someone hurts me, however, it dawns on me that they were once hurt by someone else as well. My sister was, in fact, an obese child and used to be made fun of. I later learned that the classmate sadly grew up often hearing her mother talk ill of her looks, and the whiteness of her skin was the only point her mother spoke well of. As for my boyfriend, he had an inferiority complex about being short and never forget to wear thick soled shoes.
     I have a friend who was working in the beauty industry. She used to be plain looking yet turned fashionable. She is actually attractive and has been dating with a number of men. She once told me how she felt when she heard men appreciate her looking. Contrary to my expectation, her talk was highly critical yet frustrating. She said that these kinds of praises and flatteries always inspired her with distrust and led to the breakup of the relationships. Men's appreciation of her face, make-ups, fashion, and nails never made her happy because she could not accept their comments without facing the same question no matter how sincere they were: "What if I lose all the things you appreciate? Will you still love me?"

     "It's natural that they think I'm cute. They don't know how much effort did I make to change. They don't know how much does it cost to cover up all my flaws. They don't know how much do I sacrifice to modify myself according to the criterion of what most men think to be attractive." This is what she told me (To my surprise, she was a born feminist critic).

     Recently she had quit her job as a manicurist. She confessed she gradually came to have a sober opinion of what she was doing and lost all passion for the job. Her dream was to make people happy by making them beautiful, and she spent nearly a decade working hard believing that she could do so. Nevertheless, most of the people she encountered were those who was not happy however much beautiful and gorgeous they had become.

     Her story taught me talking about how people look does not make anyone happy regardless of whether it is an appreciation or an insult, and does not do without leaving some emotional scars on them. I wish I am always conscious of what I love when I love someone.

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第3話

 Dobar dan. 「こんにちは」である。どの言語でも最初の授業は、まず御挨拶からのようだ。ベオグラードに着いたアヤコが、ドゥシャンと運命的な出会いを果たす場面。二人の物語がこれからどうなるのか、まだ誰にも分からない。いつか別れはやってくるのだろう。出会って、別れて、お別れだと思ったら、再会して、また別れて、また再会して。終るようで続いていく物語が人生だ。だから、時々、無性に辛くなるけど、それはさておき、物語をはじめる最初の言葉。Dobar dan. 

 早く来すぎた。リーリャはまた遅刻だ。時間をもてあましたドゥシャンは、とりあえず何か食べようと思った。24時間営業のカフェでサンドイッチとコーヒーを注文して席につくと、目線の先に2人組の姿があった。2時間に1回にぎわう到着ロビーに比べて、朝方まで便のない出発ロビーはほとんど人気がない。電気まで消されている。がらんとした薄暗闇に2人だけで寄り添って眠る彼らが、友だちか恋人か家族かは分からない。厚手のコートの中に身体を縮こませて、首に巻いた厚手のマフラーに顔を埋めているものだから、遠目からは男か女かも判別ができなかったが、若者であることだけは分かった。きっと格安航空券で世界中を旅してまわる若者かなにかだろう。これから何十年も先の未来で、いつか2人はこの出発ロビーを思い出すのだろうか。かつての旅立ちの瞬間に一人ではなかったことの奇跡を、その後、幾度と繰り返すであろう冷たい風が心をなでる瞬間に、なにものにもかえがたい温もりとして。だから、空港ってところは好きだなとドゥシャンは思った。あと43分。リーリャは、まだ来ない。

 ドゥシャンが思弁的なのは、彼が生まれながらにして詩人であることと関係があるのかもしれない。しかし、大方は作者の想像力が勝手に物語をふくらましてしまうせいだ。しかたない、想像力とは元来そういうものだ。ちなみにサンドイッチとコーヒーを食した後、ドゥシャンはトイレに向かった。が、作者は女であり、介護・看護等に携わった経験もなければ男兄弟もいないため、どのような手際で男性が排泄するのかほとほと分からないから、ここは何も書きようがない。試みに想像力だけで男性の排泄する様子を描写してみるのも面白いかもしれない。生涯一度も女性と交わることのなかったヘンリー・ダーガーが絵に描いた少女は、股間にはペニスがついていたというから、やってみると意外となにかおもしろいものが生まれるかもしれない。それはいつかの課題としてとっておくことにして、とりあえず終った後に手を洗わない人が多いという噂だけはよく聞く。汚いと思うから洗った方がいい。さて、ドゥシャンがトイレから出て来た。

 ドゥシャンがトイレに入っている間に、ヤパンからの客人が乗っているはずの飛行機は空港に着陸していた。しかたない、時間とはそういうものだ。持て余しているかと思えば、あっという間に過ぎる。ヤパンから来る客人を、ドゥシャンは探すでもなしに見つけ出した。黒髪オカッパ頭の小柄な女性が、きょろきょろしながらスーツケーツを転がしている。ドゥシャンはどこかで見覚えがあるなと思うでもなく、日本語の授業の教科書に載っていたKOKESHIの写真を思い出して納得したが、その間に、彼女はドゥシャンを通り過ぎて白タクの運転手たちがたむろするあたりへ吸い込まれていった。ドゥシャンは急いで駆け寄り、彼女に話しかけた。 "Dobar dan. Da li ste vi Ajako?" 

 振り返ったアヤコは驚くでもなしに "Da, ja sam Ajako."と応えたが、自分の答えがなんとも無防備なものに思えたのか、眉をひそめて恐い顔を作り、さも警戒している風を演出して"Ko ste vi?"と付け加えた。ドゥシャンは答えた。"Ja sam Dušan Vuković." それを聞いて安心したのか、アヤコは "Dobar dan. Drago mi je."と笑って言った。笑うと細い目がさらに細くなって、ますますKOKESHIに似ているなあ、とついつい思弁に赴いてしまう性格から、ドゥシャンは上の空で"Dobro došli u Beograd. Kako ste?"と言った。なんだこのボーっとした人はと思いながらアヤコは"Dobro sam, hvala."と儀礼的に答えた。

 ドゥシャンの肩を勢いよく叩く者がいた。リーリャだった。走ってきたのか、ぜーぜー言っている。ドゥシャンはアヤコにリーリャを紹介した。"Ovo je Ljilja." ぜーぜー言いながら、リーリャはアヤコに言った。"Drago mi je." アヤコは応えた。"Drago mi je." ドゥシャンとアヤコは、こうして出会った。

 

 主語が ja (I), ti (you), on (he) /ona (she), mi (we), vi (pl. you), oni/one (they)のどれになるかによって、英語で言うところのbe動詞が変わる。be動詞のことはbitiと言うらしい。

ja = sam

ti = si

on/ona = je

mi = smo

vi = ste

oni/one = su

ということなので、これは全部覚えるよりほかない。ちなみにto「それ」や ovo「これ」は、on/onaと同じ je を使うらしい。「あなた」を意味する主語には ti と vi があるけれど、複数形か単数形かという区別の他に、ti の丁寧な言い方としてviを用いるようだ。目上の人や初めて会う人には vi を使ったほうがいいらしい。

 Yes か No で答える英語の疑問文を作る時、中学1年生には「とりあえず、普通の文の主語と動詞をひっくりかえして」と教えて頭に刷り込むのが第一段階ですが、セルビア語クロアチア語でも、Da (Yes) か Ne (No) で応える疑問文を作る時はひっくりかえすらしい。ひとつ違うのは、ひっくりかえすのみならず、「これは疑問文ですよ」と分かるようにDa liという目印をつける。たとえば、

Vi ste Ajako. ==> ste vi Ajako. ==> Da li ste vi Ajako? 

となる。ほかにも

Ovo je Ljilja. ==> je ovo Ljilja. ==> Da li je ovo Ljilja? 

となる。だから、

「誰なんですか?あなたは!」

「そうです、私が変なおじさんです」は、

Ko ste vi ?

Ja sam čudan čovjek.

だっふんだーーー。ということで、わけあって今年からクロアチア語セルビア語の勉強をはじめました。スクリプトから勝手に物語を作りつつ、学んだ基本の文法事項をメモしていこうと思います。ちなみにお世話になる教科書は、中島由美、野町素己著『ニューエクスプレス セルビア語クロアチア語』(2010)です。どうなることやら。

 

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第2話

 このブログを書いている人は主観的にも客観的にも生物学的には雌であり、性における志向性ヘテロであり、愛における志向性はバイである。いや、犬猫をはじめとする生類や時には物質さえも(神が宿ると信じ)この上なく愛してしまうところがあるので、もしかしたらトリ、いや、クアトロ、いやいや、マルチなんたらと言えるかもしれない。マルチ商法ではない。ややこしい。これは愛の話だ。

 ジェンダーを問わずお友だちとみなした全ての人に対して限りなく恋愛感情に近いものを抱く。「貢ぎ癖が酷い」とか「愛情がダダ漏れ」とか批判なのか警告なのか分からないことを言われながらも、ウケがいい人にはとことんウケがいいので、人に恵まれた時は、あの人ともこの人ととも恋愛成就でハッピハッピである。ジェンダーを超越した牧歌的空間をつくりあげ、みんなで仲良くイチャイチャするのが大好きだから、そこに乱交パーティーにも似た趣を感じとる了見の狭い輩には白い目で見られるが(そう感じ取る貴様のほうが猥褻だ!)、ドグマに縛られない自由な人々には「あの頃が一番楽しかったなぁ」という甘酸っぱい思い出を提供している。身に余る光栄である。

 唐突だが、このブログを書いている人は、総人口は少なくはないけれど決してメインストリームではない業界を選んで生きている。そこはちょっぴりミソジニック。その業界に足を踏み入れて最初に教わった"処世術"は「オヤジ度を上げなさい」であった。曰く「ここは夥しい数の"オヤジ"たちがあぐらをかいている業界だ。これからあなたは、"オヤジ"たちを相手にして戦わないといけない状況にたくさん出くわすだろう。その時、お目目キラキラして『わかんなーい♡』なんて言うのは武器にならない。むしろ、子犬の目で『わかんなーい♡』なんて女子力は男の方が身につけるべき術だから」だって。これを言ってきたのも"オヤジ"であって、そのオヤジから潜在的オヤジ度の高さを見込まれたのが、この私らしい。しかも、私の隣にいた女性(友人)が「えぇ〜、わかんなーい♡」と言った直後にぶっこまれた侮辱であって、この状況に喜ぶべきか悲しむべきか"迷う"のは現代を生きる「女性」の葛藤っぽくてちょっとアレだが、「恋人」を侮辱されたにも等しいこの状況に、喜びでも悲しみでもなく怒りを選んだ私は、果たしてしれっと完全黙殺を貫いたのであった。クリシェにまみれたディスコースはしれっと黙殺するにかぎる。

 結婚が視野に入ってくると、私の「恋人」たちは「女」と「男」に分類される。驚くべきことに、この後進国では結婚に際してヒト科の雌は名字が変わる。父系社会において共同体の存続を維持するために古くから伝わる因習のひとつであるが、現代においては奇妙奇天烈な事例であるため、ぜひとも文化人類学的な上から目線で考察していただきたい。それはさておき「名字が変わるあの人にすてきなニックネームを考えてあげよう♡」と素敵なニックネームを考えに考え、「気に入ってくれるかなぁ。受入れてくれるかなぁ・・・」と愛に不安はつきものであった頃の話。相手を信じることが肝心だ。しかし、信じることは難しい。カーペンターズも歌っていた、ザハーデスtスィングアイvエヴァダンイズキープビリービンと。しかし、そこを信じることが愛なのだ!ジャーニー(喜多川じゃない方)の歌にもあったではないか、「ドンストップビリービン」と。信じることがすべてなのだ!最後に愛は勝つ!とかもじもじしていたら、見事に裏切られたので、確かに信じることは難しいし、むしろ、それほど信じないことも大切にしなくてはならない局面が人生にはあるから気をつけたいものだ。

 結婚式の受付を頼まれた。「よーし、お友だちの一世一代の晴れ舞台!恥じかかせないようにしっかりやらなきゃ!」と気合いを入れたはいいけれど「お願いね」一言で詳細連絡は皆無の完全放置。困り果てて「簡単でいいから詳細を教えて」と言ったところ、その「女」は「え、そういう感じ?pgr」(←最近、知ったpgrである。やっと使う時が来たぜメーン)。はて「そういう感じ」しかも「pgr」の部分は、どういう意味だ。曰く「いやぁー、受付は頼むけどさ、ほんと変な期待されると困るんだよね〜」と。話が見えないので、もう少しだけ黙って聞いていよう。「〜ちゃん(←私)未婚じゃん?彼氏いないじゃん?当然、男に飢えてるじゃん?出会いの機会を期待して、私の結婚式に来るに決まってるじゃん。だから、そうやって詳細を知りたがるんでしょ?申し訳ないけど同じテーブルの人たち、みんな既婚か婚約してる人だからね」。・・・。こんなに斜め上を行く人だと気づくのに、どうしてこんなに時間がかかってしまったのか。我ながら情けないが常に「恋」は盲目であり、後悔は後を絶たないが先にも立たない。「詳細」だけじゃ分からないようだったので、事務的な質問を短く箇条書きにして送信したところ、返ってきたのはさらに斜め上いく半ギレのメール。最後の一行は「申し訳ないけど同じテーブルの人たち、みんな既婚か婚約してる人だからね!」。だから、そういうことじゃない。そして、せめて詳細を・・・。完全なキレられ損である。結局、受付を頼まれた人たちの中には開始時間を知らされていない人がいたり、会場を間違えている人がいたり、プランナーの方から「受付に関しては全く把握していないのですが、もちろん新郎新婦さまとの打ち合わせはお済みですよね?」と言われたり、私以上に迷惑な思いをさせられた気の毒な人もいて、案の定な展開であった。「式が終ったら、しばらく会わないと思う」とか「あの夫婦、危ないと思う」なんて言い出す人たちも出て来て、おいおい、この短期間でどんだけ恨みを買うようなことをやらかしたんだと逆に心配になる。「夫の方が冷めてると思う」とか「あの子、いつか夫に捨てられるよ」とか聞いているうちに、頭の上の方がシュワシュワしてきて視野が暗くなってきた。多量の飲酒をしてから熱々のお風呂でぽっかぽかに温まっちゃった時や、身体が弱っている時に消化に悪いものをバクバク食べながら多量に飲酒した時になる、あのシュワシュワである(←伝わります?)。

 「男」との結婚と恋愛がオブセッションとなり、彼女が占いと神頼みとパワーストーンとパワースポット巡りに多額の資金を投じていた時点で、個人の趣向とか流行で片付けずに気づけばよかった。私は別のところで「楽園」を築こうと忙しくしていた(フラれたけどね)。結婚相手のすこし頼りない部分、気の弱い部分、偉そうな口をきいたりできない部分を「男のくせに」と非難するようになった彼女を、私は陰ながら「九州男児」と呼んでいた(※これは完全なステレオタイプであり九州という具体的な地理的実体ともそこ出身の男性たちとも関係もない。言い訳だけど、コレクトネスの誘惑に負けたのでことわっておきたい)。新郎に「家庭的な一面」を褒められほくそ笑みながらも、両親への手紙で彼女が涙ながらに宣言したのは「家事・育児と仕事の両立」であった。なるほど、彼女のような人が「一億総活躍社会」を担っていくのだ。私ではない。

 「女」「男」に分類されるものは「女」「男」に分類したがるものでもあるらしい。1000年の恋は一瞬にして冷めた。「女」「男」になんか用はない。が、今も私はその元「恋人」を見つめている、文化人類学者の眼差しで。

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第1話

  誰にでもあることだ。忙しさにかまけていた日々が一段落して、「少しのんびりしよう」と思った、その「少し」の隙間から過去数年分の感情が一気にぶりかえす。待てども待てども聖者は来らず。たまたま出会った相手が悪かっただけで、たまたま自分の気持ちが一方通行になってしまっただけだという、ただそれだけの話を、もう何十年も繰り返している。「みんな孤独よ」は普通に正しいと思うし、「んなこと知らないよ、私は私が孤独で悲しいってことにしか関心ないんだわ」っていうのも、とても素直な感情であるという意味では正しいと思う。ところで悲しいとか悔しいとか、んな馬鹿馬鹿しいもんにとらわれている暇があったら目の前の仕事しろや。とか思っている間に、いつの間にかすくすく発育して、大蛇のように蜷局を巻くうらみとつらみ。

 ああ、SNSをやってなくてよかった。やっていたら、きっと相手が幸せでないことを願いながら、現状に満足していないうえに不満を建設的な行動に移せず屁たれな日々を悶々と過ごしていることを願いながら、願わくばそれが来るべき破滅へのカウントダウンであることを欲しながら、アカウントを検索してしまう。ああ、SNSやってなくてよかった。やっていたら、きっと幸せそうな近況アップデートを見て「病んでるな」とか「劣等感の裏返しだ」とか「欲望の投影だ」とか「この人、昔から承認欲求の塊だったもんな」なんて半端な精神分析の知識で病いを次々に捏造し、気づいたら「あ、もうこんな時間」なんてことになりかねない。SNSやってなくてよかった。きっと意識高い系の投稿や敢えて下ネタに走るサブカル女子投稿を発見した日にゃ、「あーあ、とうとうここまできたか」なんて馬鹿にして笑っても、心はいっこうに空っぽのままなんてことになりかねない。

  吉本ばななの小説『キッチン』に、大事な人のために主人公がカツ丼を届けるくだりがある。ああいう奇跡が自分の人生にも起こらないかなと、まさしく物語みたいなことを考え続けている。ひとりぼっちの真夜中に、誰かがカツ丼を届けてくれる瞬間。あるいは、誰かのために真夜中にカツ丼を届けずにはいられなくなる衝動にかられる瞬間。むしろ後者のほうがいい。「ああ、このカツ丼、あの人に食べさせたい」。「好きだ・・・。好きだなあ。うぉおおおお好きだー!」って止まらない、あの毎日。こんな出不精でお家のお布団が大好きで、深夜に飲みに誘われれば相手が目上の人でもさっさと断ってしまう私が、真夜中に自分以外の誰かのために自主的に頼まれてもいないカツ丼を配達し、それを相手も美味しそうに嬉しそうに食べてくれる。大事な人がカツ丼を食べてくれただけで、世界を征服したも同然。差しだしたものを受けとってもらえる、そう多くはない奇跡の瞬間。

 久しぶりに会った友人は、ここ数年にわたる艱難辛苦からぼわっとした雰囲気を全身から放ちつつも、カタルシスの最終段階にあったのだろうか、悲しみとはこれほどまでに爽やかなものであるのかと感嘆してしまうような表情をしていた。屋台のホルモン焼きを口に運ぶでもなしに箸でいじくりまわしながら、どうでもいい話でしばらくやり過ごすと、彼女は手を止めて大事なことを言う準備をした。こういう時、優しい人は饒舌や雄弁とは正反対のやり方で語るもので、だから、彼女は饒舌や雄弁とは正反対のやり方で語り出した。「誰かと出会って、その人が去って行く。そういう、ごくあたりまえのことが、何度も経験したはずのことが、最近になって、急に、すごく辛い」。ドネルケバブのタレで手をべとべとにしながら、私はぼーっとした。こういう感情を、馬鹿にしないで、大切にして、丁寧に言葉にできる。そういう人はすてきだ。この日の空が青くてよかった。ぜんぶ吸いとってくれそう。

 

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